
夜が深まるにつれ、霧丘はさらに静かになった。
灯りがテントの内部を冷たく照らし、出入口の向こうで木々が擦れる音がときどき止み、また遠のく。
アイルのテントには、ランプの光とは別に、ぼんやりとした光が満ちていた。
モヤモヤがいる。
幼児ほどの背丈で、輪郭は定まらず、けれど重さはあるらしく、テントの床材にかすかな軋みを残した。光は呼吸のようにに強まっては弱まる。
「こ・ん・ば・ん・は」
アイルは床に座り、両手を膝に置いて、ゆっくり頭を下げた。
モヤモヤはしばらく見つめ、それから同じ角度に傾いた。
「……まね、してる?」
アイルが指を一本立てると、モヤモヤの表面に細い光の筋が一本、すっと走る。
掌をひらひらさせると、光はひらひらと揺れた。
「えらい、えらい」
今度はアイルが胸に手を当てる。
「ア・イ・ル」
モヤモヤの光が胸もとに集まり、かすかに脈打つ。音は出ない。ただ、確かに何かが伝わっている感じがした。
「おい、本当にそれ…飼う?…のか?」
シーカーがテントの出入口のところから顔をのぞかせた。
「危ないって決まったわけじゃないけどさ。ほら、こういう“出自のわからないもの”って、ろくでもないことが――」
アイルは首をふった。
「大丈夫。少なくとも、いまは。ほら、目がやさしい」
「何考えてるかわかんない目にみえるけど……」
シーカーは頭を抱え、それでも視線は離せないらしく、じっと観察を続けた。
「賑やかですね。夜ふかしは成長の敵ですが」
テントに首を突っ込んでいるシーカーの後ろにスペーラーが立っているらしい。
スペーラーの顔は見えないまま会話は続いた。
「成長してるのは、たぶんこの子」
アイルが笑うと、モヤモヤの光が少しだけ明るくなった。
スペーラーはいつものように一度大きくため息をつき、ため息をつくかのように話を続けた。
「ふー……こんな動物はいないんで、おそらく神族の一種なんでしょうけど…今のところ、それは、神族の目的が何かもわかってないみたいですね。」
シーカーが小声で問う。
「”神族の目的っていうと…」
「ふー。もちろん世界の均衡を保つことですよ。」
スペーラーは肩をすくめ、軽く手を振った。
「たいした異変でもなかったんで、たいしたものでもないランクの神が出てきちゃったかもしれませんねー。ふー…もう寝ます。」
そういうとスペーサーは一度も顔を見せることがないままアイルのテントをあとにした。
アイルはモヤモヤの前に両手を差し出した。
「さわってもいい?」
モヤモヤはためらいがちに近づき、アイルの手に、やわらかく体を預けた。重みと温かさがゆっくりと乗ってくる。
その瞬間、胸の奥にさざ波のような感情が広がった
――心細さ、安堵、不安。
アイルは目を細めた。
「……大丈夫。こわくないよ」
そう言うと、モヤモヤはアイルの言葉の長さに合わせるように光を伸ばし、短く縮める。まるで会話の拍を真似しているかのようだった。
「なあ、アイル」
テントに突っ込んだ頭だけのままでシーカーが観念したように息を吐く。
「連れて帰るならさ、名前はもう決めたんだよな。モヤモヤだっけ?」
アイルはうなずいた。
「うん。“モヤモヤ”。呼ぶと、ちょっと笑ってくれる」
モヤモヤの光がふっと弾け、アイルの肩に寄り添う。
シーカーは額を押さえた。
「……わかった。俺は反対したけど、お前の好きにしたらいいよ。うーん。でもなんというか反対したからって、何かあった時は助ける。それが仲間だからな」
「ありがと」
アイルが微笑むと、モヤモヤもまた、微笑んだように見えた。
「もう俺も寝るよ」
シーカーはアイルのテントから顔を引き抜き立ち上がった。
「明日は一応、霧丘の縁をもう一度見るってスペーラーさんが言ってたな。なんか近くに塔があるらしい。そっちの方も行ってみたいんだって――」
「うん。そうかありがとう。シーカーありがとう。シーカー…あのね。
いつもありがとう。あなたがいてくれて良かったって思うよ。」
シーカーはテントの出入口から手だけを入れてその手を振った。
「俺もだよ…おやすみ」
そう言ってシーカーも自分のテントに戻っていった。
静けさが戻る。
アイルは毛布を敷き、そのそばにモヤモヤの居場所を作った。モヤモヤは布の上で丸くなると、光は穏やかに明滅し、やがて子どもの寝息のようなリズムになった。
「おやすみ」
アイルの声に、薄い光が一度だけ強く瞬く。返事のかわりのようだった。
夜は深く、静かに過ぎていき、どこか遠くで、鐘が一度だけ低く鳴った。



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