
沈黙ののち、ダガールは深く息を吐いた。まるで胸の奥に溜まった何年分もの重さを吐き出すように。
「……わかっているんだ。もちろん、俺だってわかっている。村が“あの日”から動いていないことを。俺だけが歳をとり、俺だけが時を失ったようだ……。それでも、目の前に家族がいる。笑って迎えてくれる娘と妻がいる……」
声は震えていたが、その瞳にはかすかな決意の光が宿り始めていた。
アイアイは迷いながらも口を開いた。
「でも……この村の“時間”は止まったままなんだよ。みんながあの日の続きに生きているだけで……ダガールさんだけが……」
「そうだ。だから、つらい。」ダガールは遮るように言い、拳を膝に握りしめた。
あっけなく素直に「つらい」といったダガールの顏を見てアイアイは胸が締め付けられるのを感じた。
「俺は……あの日から、ずっと後悔の中で生きてきた。妻と娘を守れなかったのかと。どうしてあの時、一緒に村にいてられなかったのかと。その後悔すら間違いだったのかもしれない。俺は、どこかで感動の再会ってやつを夢見てたのかもしれん。」
ダガールは下を向いてうつむいていた。彼の積年の悲しみ、離れていた苦しみを理解できるものは村にはいなかったのだ。
「だが、俺は選ぶ。残酷でも、偽りでも……この日常を受け入れて生きる。失った年月を悔やみ続けるよりも、今、もう一度娘を抱ける方を選ぶ。喜びはあらたに作っていけばいい。皆が生きていたことこそが・・・」
ダガールの言葉に、猫の使者は深く目を閉じた。まるで痛みを噛みしめながら、静かにうなずくように。
グリグリは裾を握ったまま、不安そうにアイアイを見上げた。
「アイアイ……本当に、これでいいの……?他に方法はないのかな…」
アイアイは答えられず、ただ唇を噛んで俯いた。ダガールの選んだ覚悟が、あまりにも切実で、それを否定できるだけの言葉を持ち合わせていなかった。
その夜は重苦しい空気のまま更けていったが、翌朝、ダガールは村の畑に顔を出し、村人たちに挨拶をして回った。その姿は、不器用ながらも新しい日常を受け入れようとする者のそれだった。
途中、外で遊んでいるダガールの娘を見かけたが、娘はきれいな髪飾りをつけ、ぶかぶかの真っ赤なマフラーをして、かわいい女の子の人形を手に持ち、木でできた車のおもちゃにのってはしゃいでいた。ダガールからの渡せる限り、すべての贈り物を受け取ったのだろう。はしゃいてでる娘に声をかけたダガールは満足そうだった。
グリグリが歩くダガールの裾を掴んでつぶやいた。
「ダガールが選んだなら…それで正解だと思うよ…」
沈黙ののち、ダガールは深くうなずいた。
「そうだ。俺は選んだ。選んだ選択肢が正しかったかどうかじゃないんだ。選んだ方を力ずくで正解にするんだよ。」
そう言ってダガールは、大きな声で笑った。まるで自分を鼓舞するかのように。グリグリも一緒になってニコニコと笑っていた。
日中、アイアイたちはダガールの案内で村を歩いた。畑の緑は瑞々しく、井戸の水は澄んでいた。子どもたちの笑い声は絶えず、老婆の背中も相変わらず小さかった。――ダガールにはすべて「あの日の続き」でしかないように見えた。
だが、ひとつだけ違っていたものがあった。
「昨日、村を回って気づいたんだ。」
ダガールは声を潜め、アイアイたちを振り返った。
「広場に……銅像が建っていた。あれだけは、俺の知っているカース村にはなかったものだ。」
「銅像?」アイアイは眉をひそめた。
「そうだ。遠くから見ただけだから、何の像かはよくわからなかった。ただ……不思議なことに、村人たちはそれを“前からあった”かのように扱っているようだった。」
村人たちはその前を素通りし、まるでずっとそこにあったかのように気にも留めていなかったらしい。
猫の使者は静かに耳を動かし、低くつぶやいた。
「……銅像、、、なんの銅像なのでしょうか。誰かが、あるいは“何か”の意図を感じますね……」
彼らは意を決して広場へと向かった。朝の光を受け、銅像は村の中央で静かにそびえていた。陽を受けて鈍く光るその姿は、遠目にも異質な存在感を放っていた。
「……っ」
思わず息をのんだアイアイの足が止まる。グリグリも目を見開き、猫の使者は言葉を失った。ダガールは眉間にしわを寄せ目を閉じた。
アイアイの声が震える。
「……うそ、だろ…」
そこに立つ銅像はアイアイの姿をしていた。



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