ヒカサワキコリのプロフィール詳細
40代、現在、広島県在住。
名前:日下沢 樵 (ヒカサワ キコリ)
家族:妻・長男・次男・ペット(ホワイトシェパード♀)
料理歴:学生のころに数か月、ラーメン屋でバイト
長崎出身、そこから転々と
もともとは長崎県の、海と山に囲まれた小さな町で、地元の工場で働いている父親と、建設会社の事務をやっている母親のもとで、育ちました。
小さな町は、「海があって山!」でした。とても狭い斜面にしがみつくように生きていました。海は大きな湾で、突き抜けることはなく海をとおる視線は向こう岸で遮られていました。

それでも内海にたたえる静かな波はおだやかで美しい風景を提供し続けてくれました。
18歳のとき、この町を離れました。
大学受験のさい、とにもかくにもこの狭い町から飛び出したいって思いで、三重大学と鳥取大学(島根大学だったかもしれません・・・気を悪くされる方がいらっしゃたらすみません)を受験しました。
縁もゆかりも、これらの土地に行きたい理由もありませんでした。
高校は進学校で、自分自身、進学はしたいと思ってましたが、受験の機微というか、なんというか、受験の知識というか、そういうものにあんまり興味がもてなくて受験に対して本当に大味に舵を切っていました。
つまり、なにを言いたいかというと、その2校しか受けませんでした。
たしか、、、前期と後期ってやつです。滑り止めって言葉は知っていましたが、みんないろいろ大変だなって他人事でながめていたように思います。
で、両方落ちました・・・2校とも落ちました。
両方落ちた私はそこからなぜか元気がでて、自分で浪人する予備校をしらべ、両親にその予備校を勢いよくプレゼンしていました。
うちは、姉が高校のときに海外に留学に行き、その下の兄は、サッカーでプロを目指しユースチームでキャプテンをやっていました。
小さな町では十分すぎるほどタレントフルでした。
でも僕には何もなくて、ちょっとお勉強ができるくらいでした。
いつぐらいかは忘れましたが、ある年のお年玉のポチ袋に父が
「ちょっと頑張りが足りないキコリ)へ」と書かれていたのを
いまでも覚えています。
これまでろくに家事にも参加せず、思春期の僕とろくにコミュニケーションをとることもしなかった父にこんなこと書かれるなんて、、、
まずは怒りがありました、、、今考えると見透かされていたからこその、こみあげてきた怒りなんだとは思います。
そんな僕ができることは、2人とは違って公立の高校にいき、国立の大学にいってお金をかけさせず自慢の息子になることだったのに、
大学に落ちました。
でもあまり落ち込んでもしょうがない、その頃は親からの関心とかもあまり気になっていなかったし、
まずは甘えるだけ甘えてやれというつもりで、予備校をプレゼンしました。
そして、予備校で頑張って東京の東京学芸大学に合格することができました!
このときも前期と後期しか受けていなくて、、後期でどこを受けたかも忘れました。
ちょっと端折っていきます。
んで東京での生活が始まり、寮生活をして、卒論をコピペオンパレードで提出し必要単位ぴったりで卒業しました。
就職・・・就職でも悪癖がでました、、ギリギリまで就活をせず、本当にぎりぎりで「京都たけ○ち」という着物販売の会社に新卒入社しました。
やばい会社でした。ブラブラグラックでした。
店の前を通っただけの若い子にバンバン売掛で売りまくるような会社で、
8時半には出社し、夜中11時半に会社を出ていました。
一日、15時間勤務(^_-)-☆
ぼーとしてたら会長が飛んで、会社ごと飛びました。
そこからいろいろと点々としますが、
(派遣する側の会社の社員。東急ハンズに派遣されるレジチームのリーダー)など経験し、
だどり着いたのが全国展開する中学受験専門学習塾、日●研でした。そのなかでも創始者系列、通称本部系の会社に就職することになりました。
ここは、会長がよくわからない人でした。この会長は、「塾」であるにも関わらず、子どもの学習に関する深みにはまっており、中学受験合格のために「ただ点を取れればいい」なんてこれっぽっちも考えておらず、子どもの学習の本質にものすごく情熱を割いていまして、「合格するために(小手先の)点数をあげるやり方」なんて話をしようもんなら、怒鳴り散らされるほどでした。
とにかく子どもが何かを学ぶ上でのプロセスやその寄り添い方に「のみ」重きを置いていて、すべての研修がその姿勢のもとに考えられていました。
もちろん現場では「点数をあげることが大事」「本質よりも小手先の技術も必要」みたいな空気はありました。
この会長ははっきり言って変人で狂人で、気に入らない社員は平気で「飛ばす」人でした。私も大っ嫌いでした。
でも今思うのはこの日能研本部系での研修や与えられた資料、身につけさせられた考え方が、「思考する」ことにとてつもなく役立っている気がします。人生を渡っていく上でこれ以上にない力をインストールできたといっても過言ではないと思います。
研修をうけた社員が全員そうなったわけではないと思います。そんなことより目の前の子どもたちの点数あげなきゃって感じの人も多かったと思う。でも私は、そんな考えることが、考えるための研修が楽しくてしょうがなかったから、それらを元手に日能研をやめてからも今長い時間をかけてモノにできてきたものもあると思っています。
これらの力は自分の人生や軸を変えたといってもいいくらいで、そこに関しては感謝しているし。これらを獲得するために、あの会社が私の人生に現れたんだと思ってしまうくらいです。でも会長のことは許しません笑
まさかの海外生活。オランダにいくことに。
その日●研時代に、大学時代から付き合っていた今の妻と結婚し第一子、第二子、(両方男子)が生まれ、途中、系列の教育書関連の出版社に出向になったりしながら(会長に飛ばされました笑)暮らしているとまた転機が訪れました。
妻(小学校教師)が自身の学びのためにオランダに行きたいというのです。
まあいいやということで、私は日能研をやめ家族全員でオランダに移住することになりました。
そこで、私はなんと2年間無職で主夫をしていました。
日本にいるときから、成り行きで私が料理することが多かったのですが、
この時から、決定的に『料理はキコリの仕事』になりました。
日本との友好プログラムで安価でオランダ語を学べました。そのプログラムに、ほぼ難民で構成された多国籍のクラスメイトと一緒に週2回通うくらいしかやってませんでした。
結局最後まで、英語もできないし、もちろんオランダ語もできなかったけど、家族さえいればなんとかなるもんで、なんとかなってました。
あまりコミュニケーションはとれていなかったけど、
自国の教会が爆破され自国に失望し、オランダでのキリスト教への信仰に希望を抱いてやってきた中国人家族。張さん一家。洗礼名はパパ:ダーヴィッツ、ママ:マリア、息子:ヨセフでした。・・・すごい。
あとは日本語がちょっとわかるイラン人とか、コロンビアのおばあちゃんとか5か国語話せて強面のポーランド人。
みんな元気にしてるかな?
あとはオランダ生活での、ネットで必死にいろいろ調べて、家探しや生活基盤を整えたあの経験は、今でも自分の血肉になっています。
そこで、
妻が知り合った農家さんから、犬をもらうことになりました。
それがラテちゃんです。今は7歳です。2026年時点

そんなこんなで暮らしているとまた妻がいいました。
オランダで学んだことを活かせる学校が広島にできるので日本に帰る。
もうなんだかオランダに骨を埋めるくらいのイメージができてきていた私は、ちょっとびっくりしたのですが、まあいいかという気持ちで帰国しました。
そこからは広島にボロ家を買い、主夫として家事もやりながらホームセンターで暮らしていました。その後、ボロ家の数十メートル離れた別の家に移り住んだりしながら
5年ほどたったある日、妻が
学校はやめて、会社を作る
と言い出しました。ホームセンターでの仕事に限界を感じていた
私はまあいいかと思いほぼ同時に仕事をやめて
個人事業主になりました。
1か月間ほど「やりたいこと」を考え抜きましたが、
わかりませんでした、、、関連本も5冊くらい読みました・・
今、思っていることはまずは小さなマネタイズを学ぶことに集中すること、そこからやれることを増やすこと。
やれることを増やして、それによって資産を増やすこと、やれることが増えていく過程でやりたいころが見えてくるはずという思いのもと始動したばっかりという感じです。
ここいらでまとめに入ります。。。
今、取り組んでいること
一言でいうと、
「小さな仕事を、たくさん積み上げること」です。
SNSを通じて発信を始めたり、
AIツールを活用してコンテンツを作ったり、
このブログを書いたりしています。
あと、気が付いたらアイアイの大冒険を書くことになってました。
正直、まだまだ試行錯誤ばかり。
でも、
「できると思えばできる。できないと思えばできない。どちらも真実である」
──この座右の銘を胸に、少しずつ歩いています。
それでは、ヒカサワキコリブログを引き続きお楽しみください。

