
アイルは、しばらくのあいだ何も言わずに立っていた。
光が消えたあとも、まるで夢の続きの中にいるような表情だった。
やがて、彼女は小さく首を傾げて口を開いた。
「……ここは、どこ? あなたたちは……だれ?」
その声は、確かに映像で聞いたアイルのものだった。
けれど、その響きにはどこか幼さと戸惑いが混じっていた。
アイアイは胸の奥がざわつくのを感じた。
「アイル……?僕たちここまで来たよ。君を呼び出す??‥ことが目的だったんだね。ここからどうすればいいの?」
少女は静かに首を振った。
「……わからないの。何のことを言っているのかもわからない。わたしが最後に覚えているのは……“あのとき”のことだけ。みんなが……消えていく瞬間の光……そこから、ずっと夢を見ていた気がするの」
“あのとき”。
その言葉が広間に落ちた瞬間、空気がかすかに震えた。
猫の使者が息を呑み、オイラーは顔を上げる。
グリグリだけが、戸惑ったまま目をぱちくりさせていた。
「“あのとき”って……例の、あの日のこと……?」
アイアイの言葉に、アイルはほんの少しだけ目を伏せ、ぽつりとつぶやいた。
「……あなたたちは……どっち?」
アイアイとグリグリは顔を見合わせた。意味が掴めない。
その沈黙のあと、アイルは小さく震えた声でつぶやいた。
「……わたし、いったん帰りたい……やっぱり…帰った方がいいのよ…」
言葉の意味が掴めないまま、アイアイは言葉を失った。
アイルは、何かに怯えるように、顔を手で覆い、その場に立っていた
次の瞬間――。
轟音が、天井を突き破った。
まばゆい光とともに、破片と砂塵が雨のように降り注ぐ。
「な、なに――!?」
グリグリが叫んだ。
粉塵の中から、巨大な影がゆっくりと降下してきた。
銀色の鱗、空気を裂くような眼光。
「……ツヴェイ!!」
アイアイの叫びが広間に響いた。
ツヴェイは翼を大きく広げ、吹き飛んだ瓦礫の中に着地した。
その姿は堂々とした威厳を保ちながらも、どこか焦燥を孕んでいた。
グリグリが半ば怒鳴るように声を上げた。
「お、おまえっ、なんだよ急に! どこ行ってたのさ!
それにさっき空で追いかけてたの、あれなんだったんだよ!」
ツヴェイは一度だけ短く息を吐き、何かを思い出すように軽く答えた。
「……ああ、あれか〜。食べちゃったよっ」
「はぁ!?」
「あれも“あのとき”に狂っちゃったやつさ。あれなりに“できること”をやっていたみたいだけど……計画の邪魔になりそうだったからね〜。食べた。うん。おいしくはなかったよ。」
猫の使者が眉をひそめ、静かに言った。
「……なるほど。では、あの蝶の羽を持つ存在が、ウーセルたちを生み出していたのですね」
ツヴェイは短くうなずいた。
そして、ツヴェイは全員の顔をひととおり眺めた後、一歩、アイルの方へと踏み出した。
その動きに、アイアイが反射的に前へ出た。
「やめて!彼女に何を――!」
しかしツヴェイは穏やかな声で言った。
「ごめん。アイアイ。急ぎなんだよぉ」
彼はアイルの肩をやさしく、しかし確実に掴んだ。
アイルの瞳が驚きに揺れる。
「ツヴェイ、まって! どこへ――!」
アイアイの叫びを遮るように、ツヴェイは翼を大きく広げた。
「あとは、彼らをまっててよ。もうすぐ着くと思うんだよね~」
最後の言葉が響いた直後、竜の体が天井の裂け目へ舞い上がった。
アイルの悲鳴が、光の尾の中で掻き消える。

やがて、再び静寂が訪れた。
破壊された天井からは光が差し込み、粉塵がゆっくりと舞っていた。
アイアイは立ち尽くしたまま、しばらくその光を見つめていた。高揚、安堵、再びの喪失。掴みかけたものがことごとく手のひらをすり抜けていく。焼き切れそうな脳とあふれ出しそうな涙をやりすごすためにアイアイは光の中の粉塵を見続けていた。
グリグリがかすれた声でつぶやいた。
「……“彼ら”って、誰のこと……?」
その言葉とほぼ同時に、猫の使者は何かに気づいたように顔を上げ、広間の入り口を見た。
その視線の先――。
そこには、一人のライオン族の騎士が立っていた。
金のたてがみが光を反射し、純白の鎧の表面には見覚えのある紋章が刻まれている。
――トロトロット公国の紋章。
騎士の背後から、数人の兵士が静かに現れた。すべての鎧に、同じ紋章があった。
トロトロット公国の紋章、それがアイアイの目に飛び込んできたとき、それまでの、ぐちゃぐちゃだった感情が、一つの怒りに収束された。
向かって来る兵士たちに対してやれることはほとんどないとわかってはいたが、アイアイは叫び出したいほどの怒りに支配された。
『お前らが全部悪い!』と幼稚ともとれるような怒りを爆発させたい衝動に駆られる。
その間にも先頭の騎士は、障害なんて何一つもないようなそぶりで、手ぶらのまま、まっすぐに近づいてきていた。
しかし、アイアイが、騎士に対して、怒りの表情を向けた瞬間、気が付くと騎士は剣を抜き終わっていた。
そして、けだるそうに剣先をアイアイに向け、ため息まじりに言った。
「ふぅ。抵抗されると、ちょっと面倒なんでね。一応、言っておきますけど――ここは完全に包囲してますので、そのつもりでお願いしますよ」
鎧の擦れる音が、広間に重く響く。
粉塵は光の中を尚も舞い続けていた。
ー 第四章 完 ー



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