
大空洞のざわめきから完全に遠ざかると、通路には信じられないほどの静けさが戻っていた。
息を整えるたびに、胸の奥に新しい空気が満ちていく。
暗闇を抜けた先に、ようやくかすかな青白い光――広間へ続く導線の光が見えた。
アイアイたちは無言のまま顔を見合わせた。
「……終わったんだね」
グリグリが震える声で呟いた。
猫の使者が静かに頷き、背に負ったオイラーを支え直す。
「ええ……奇跡のようなものです。……これは…勝利と呼んでもいいでしょう」
その言葉に、アイアイの胸が熱くなった。
ウーセルの気配は消え、通路を包む空気はやわらかく、まるで学舎そのものが深く息を吐いているようだった。
歩を進めるたびに、重かった足取りが軽くなっていく。
ほんの少し前まで死の縁に追い込まれていたことが信じられないほど、心は晴れていた。
「……やっと、台座に戻れるんだね」
グリグリが言い、アイアイは笑顔で頷いた。
この長い一連の出来事の果てに、もう一度あの台座へ――
台座へ戻ること――それは恐怖や緊迫からの解放とも相まって、奇妙な「愛おしさ」さえ帯びていた。
足を踏み出すたびに、「再び台座に到達すること」が確実になっていく。そのことがアイアイをめまいがするほどに高揚させた。
通路の終点、崩れたアーチの向こうに広間の入り口が見えた。
つい先ほど、この入り口を必死で走り抜けたときには、この場所に、こんなにも完璧な状況で戻ってこれるとは誰一人、考えもしなかった。広間の入り口、ひび割れた柱に光が反射し、淡い霧がゆっくりと流れ出てくる。
その霧を見た瞬間、アイアイの高揚する胸に懐かしいような温もりも加わった。
――帰ってきた。
その感情は、なにかしらの言葉でまとめるには分量が多すぎた。高揚も、懐かしさも、安堵もそれぞれ質量を帯びるほどの分量で、とても「言葉」に落とし込むことはできそうになかった。
広間に足を踏み入れた瞬間、全員が息をのんだ。
台座はそこにあった。
しかし――何の変化もない。
青白く輝いていたはずの紋様は淡く、まるで力を使い果たしたあとで眠っているように見える。
「……動いてない……?」
アイアイの声は小さく震えた。あれほどの感情の分量も一気に質量をなくしてしまった。
アイアイがうつろなまま近づいても、なにも反応はない。
かすかな焦りと、胸の奥にぽっかりと空いたような空白が拡がる。
「どうして……さっきあれほど光ってたのに……」
そのときだった。
アイアイがもう一歩、台座の縁へ足を踏みいれた瞬間――
広間全体の空気が変わった。
空気が静電気を帯びるように震え、床の紋様が淡く光を取り戻す。
次の瞬間、台座の中央に光が集まりはじめた。
それははじめ、霧の粒のように細かく、しばらくは渦のように回っていたが、やがてゆっくりとひとつの形を描き出していく。
光は、何らかのの輪郭を模すかのように立ち上がり、まるで空気が自らを彫刻しているかのように、ゆっくりと姿を整えていく。
髪の流れ、手の輪郭、まつ毛の影――それらが光の中で形を取り続ける。
明らかに光は、「人の形」をとろうとしていた。
その光景は幻想的で、あまりに美しく、誰も息をすることすら忘れていた。
気が付くと光は「ひとりの少女」の姿を完成させようとしていた。

少女の姿は、台座の上からゆっくりと降下していった。
少女の足が床に触れた瞬間、光は静かに消え、
その場には、肉体を持ったひとりの人間が立っていた。
アイアイは目を見開いた。
「……アイル……?」
少女の姿は、王城や旧塔で見た映像の中のアイル、そのものだった。
服の裾がかすかに揺れ、彼女の瞳がゆっくりとアイアイの方を向く。
その目は、驚きでも恐れでもない。
まるで、ずっと前からこの瞬間を知っていたかのような、穏やかな光を宿していた。
アイアイの頬を、熱いものが伝った。
泣いているのだと気づいたとき、もう止められなかった。
猫の使者も、グリグリも、そしてオイラーまでもがその光景を見つめていた。
誰も言葉を発せず、誰も動かなかった。
ただ――
広間に立つその少女の微笑みだけが、永遠に続くかのような静寂の中で、確かにそこにあった。


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