
ツヴェイの広い背にしがみつきながら、アイアイは息を詰めていた。
翼がひとたび羽ばたくたびに、視界の端で村の屋根が遠ざかり、広場に残された自分の銅像が豆粒のように小さくなる。冷たい風は頬を叩きつけ、耳の奥で唸り声のように鳴り響いた。
「お、おちるぅぅ……!」
グリグリが必死にアイアイの背にしがみつき、尻尾をぶんぶん振っている。
「大丈夫大丈夫!ツヴェイの背は案外、安定してる!」
そう励ますアイアイ自身も、握った指が白くなるほど力を込めていた。
眼下には谷がのたうつように続き、遠くに霧に包まれた学舎の影が見えていた。
猫の使者が風に外套をはためかせながら冷静に言う。
「……あれが目的地。“廃墟の学舎”でしょうか」
「名前からして、ぜったい怖いとこじゃん……」
グリグリの声は震えていた。
雲の切れ間から差し込む光は、翼の影を大地に映し、川面をきらめかせる。
風は澄みきった笛の音のように耳を抜け、胸いっぱいに広がる自由の匂いを運んだ。
彼らを乗せた巨体は、雲海を割って昇る太陽のきらめきに包まれながら、ゆるやかに空を駆けていった。見渡せば、遠くの山並みは雲の海に浮かぶ島のように連なり、谷底には白い霧が絹布のようにたなびいていた。
そのすべてがひとつの大きな絵巻となって眼前に広がり、風の匂いとともに世界の広がりを告げていた。
アイアイは思わず息を呑み、胸の奥が熱くなるのを感じた。
これまで自分の村と森しか知らなかった心に、はじめて「世界の広さ」というものが鮮烈に刻まれていったのだった。
グリグリも初めはこわばらせていた頬を緩め風景を楽しんでいるかのようだった。
そんなアイアイとグリグリ、そして猫の使者の視点が1点で止まった。前方の雲の切れ間に、不思議な影が浮かび上がったのだ。
近づくにつれそれが何なのかは見えてきたのだが、
理解はできなかった。
蝶のような大きな羽。小さな体にフードをかぶり、空中に静かに佇んでいる。
風に流されることもなく、まるでそこだけが時間から切り離されているかのようだった。

「な、なんだあれ……?」
アイアイがつぶやき、ツヴェイが速度を緩める。
グリグリは怯えた声で「おばけ……じゃないよね……?」と背に潜り込んだ。
やがて、うつむいていたその存在が顔をあげ、こちらを向いた。丸い瞳がきらめき、口がゆっくり開く。
「ありがとうございます。この町ははじめてですか?」
唐突な言葉に、アイアイはきょとんとした。
「え……?町?? あ、こ、こんにちは」
「海が青いのは太陽光と関係があります」
まったく関係のない返答が返ってきた。
猫の使者が慎重に尋ねる。
「あなたは、この空域の守り手か何かですか?」
「今日はおいしそうな天気ですね。パンは発酵時間が重要です。あったかいポップコーンはいかが?」
またしても噛み合わない言葉。
「ここの畑では、とってもおいしいトマトが採れますの。青いザリガニもたくさん採れますよ。」
グリグリは頭を抱えて「な、なにこれ……意味わかんない……」と震える。
ツヴェイは長いため息をついた。
「……あーなるほどねー。これは“気にしないでいいやつ”だ。元シンゾクってやつだよ。先を急ごう。みんな気にすんなー。行こう行こう♪」
猫の使者も頷いた。「なるほど、関与してはいけない類ですね」
アイルは「シンゾクとは何か?」ツヴェイに尋ねたが
「君には関係ないことさ、気にすんな気にすんなー♪」と
鼻歌交じりにごまかされた。
続いて猫の使者を見たが彼はまっすぐ前を見ており、なんとなく答えてくれないだろうという実感があり、アイアイは、それ以上は何も聞かなかった。
ツヴェイが再び大きく翼を広げ、進路を変えて加速する。
蝶の羽を持つ存在は取り残されたように空中に浮かび、こちらを見送ることもなかった。
――そして、一行の誰も気づかなかった。
一行が飛び去った後、その『蝶の羽をもつ者』のすぐ後方、空間のひずみから、真っ白な人形のようなものがひとつ、ぽろりと生み落とされていくことに。
人形は声もなく、ゆっくりと落下していった。
やがてその光景も雲の向こうに隠れ、アイアイたちの視界から完全に消えた。
彼らの耳に残るのは、ただ風の唸りと、ツヴェイの陽気の独り言だけだった。


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