シーカーは、ただ走っていた。
どこへ向かっているのかもわからないまま、ただ追い立てられるままに。
背後から、羽ばたきと金属の擦れる音が迫ってくる。
「侵入者、北側回廊に移動!包囲を維持しろ!」
カラス族の声が、石壁に反響する。
湿った地下室から続く通路は狭く、曲がり角も多い。
視界の端で、黒い翼が何度も閃いた。
「ひぃ……!これ捕まっちゃうとどうなるんですか!?」
「ふー……ろくなことにはならないでしょうね。最悪…ふー」
スペーラーは相変わらず淡々と答える。
息はあまり切れていない。シーカーだけが、ぜいぜいと肩で呼吸をしていた。
「スペーラーさん、どこに逃げればいいんですか!」
「上に行きましょう。ここはおそらく地下です。地上に出ないことにはどうにもなりません。たぶん」

たぶん、の一言にツッコむ余裕もなく、
シーカーは指さされた階段を駆け上がった。
石段を踏みしめる足に、じくじくと疲労が溜まっていく。
振り返ると、下の踊り場にカラス族が飛び込んでくるのが見えた。
「前方確認!はやく捕まえろ!」
鉤つき棒が振り上げられる。
シーカーはふーふーいって全力で走り続けた。
二人は階段を駆け上がり、踊り場を抜け、
やがて天井の少し高い回廊に飛び出した。
そこは先程までの地下とは違い、壁に装飾の施された長い廊下だった。
窓はないが、天井のあちこちで淡い光が明滅している。
石床に刻まれた模様が、うっすらと光を返した。
「……でででで出口はどっちでしょうか!」
「うーん。ここは地上階で間違いはなさそうですが。ふー……出口までは遠そうですね」
安堵する暇もなく、背後から再び羽音が近づいてくる。
シーカーは廊下の先を見て、息を飲んだ。
「分かれ道だ……!」
左右に伸びる回廊。
それぞれに、同じような石壁と装飾。
シーカーはほんの一瞬だけ迷い――
「右!」と叫んで駆け出した。
角を曲がった瞬間、背後でカラス族の一団が滑り込んでくる。
鉤つき棒が床を打ち、火花が飛んだ。
「侵入者、右回廊へ!追跡を継続!」
声が追いかけてくる。
シーカーは歯を食いしばり、ただ足を前に出し続けた。
(アイル……どこだよ……)
胸の奥が、焦りと不安でぎゅっと締めつけられる。
あいつなら――
こんな状況でもきっと笑っている気がした。
そのときだった。
廊下の先、床の上に“何か”が落ちているのが目に入る。
「……ん?」
シーカーは思わず何かの予感がして、走りながらその何かを拾った。
それは一枚の布だった。その端の刺繍には見覚えがあった。
「これ……」
指先が震える。
それは、アイルの郵便袋の内布と同じ模様だった。
ディグレンチェ村で、配達員になったときに縫い付けてもらったと言っていた布。
「アイル……ここを通ったんだ……!」
喉の奥が熱くなる。
シーカーは布をぎゅっと握りしめた。

背後から羽音が迫る。
スペーラーが短く息を吐いた。
「感傷に浸る時間はありませんよ。ふー……しかし、良かったですね」
「良くないですよ! ……いや、良いですけど!でも追われてるんですよ、今!!」
カラス族の影が曲がり角の向こうに見えた。
シーカーは布をポケットにねじ込んだ。
さらに先へ進むと、廊下はふいに開けた場所へとつながった。
高い天井、壁一面に埋め込まれた棚。
分厚い本が並び、空中には誰のものか、羽毛がふわふわと漂っている。
「……図書室、ですかね?」
「記録棟の一部かもしれませんね。隠れるには悪くない場所です」
スペーラーがそう言うと同時に、
別の出入口からカラス族が二羽、飛び込んでくるのが見えた。
「どうしましょう。スペーラーさん!」
「ふー……では、この下に隠れましょうか」
「下?」
スペーラーは棚の隙間の一点を指さした。
そこには半ば開きかけた木製の小さな扉がある。
普通に歩いていたら見落としてしまいそうな、目立たない扉だ。
「わかりますか?おそらくこの下には、なにかしらの空間があります」
「……よくこんなもん見つけますね!?」
感心しながら、シーカーは扉を開け放った。
軋む音とともに、冷たい空気が吹き上がる。
「行きますよ!」
二人は身を縮め、その先にあった狭い階段を一気に駆け降りた。
扉が閉まる直前、上の方でカラス族の声が聞こえた。
「足跡が途切れたぞ!周囲を探せ!」
扉の下の薄暗がりに、ふたりの息遣いだけが残る。
シーカーは壁に手をつき、その場にしゃがみこんだ。
「……はあ、はあっ……死ぬかと思いました……」
「生きていますよ。ふー……まだ」
スペーラーは平然とした顔で、狭い階段の下を覗き込んだ。
そこには、さらに続く通路が見える。
さきほどの地下室ほど湿ってはいないが、人の気配はあまり感じられない。
「ここは……?」
「おそらく、あまり使われていない区画でしょう。追跡もすぐには届かないはずです」
シーカーはポケットの中の布を握りしめた。
さっき拾った、アイルの痕跡。
「……アイルも、この建物のどこかにいる…」
自分に言い聞かせるように呟く。
「ええ。そういうことでしょう」
スペーラーは階段を降りながら、何気ない調子で続けた。
「彼女は、あなたが想像するよりも、しぶとそうですし」
その言葉に、シーカーは少しだけ笑った。
「……そうですね。あいつ、簡単には倒れないですから」
ふたりの足音が、静かな通路に吸い込まれていく。
頭上では、なおもカラス族の羽音が遠く響いていた。