
翌朝、肌を突き刺すような冷気が詰所を包んでいた。
外はまだ静かで、風の音もない。
アイルは食堂の片隅で荷物をまとめていた。
デバ石を布に包み、ポーチの底へ押し込む。
「今日はどんな一日になるかな」
独り言に、背後から声が返る。
「できれば、昨日より静かであってほしいですね。ドラゴンなんてそうそう会いたくありませんから…ふー」
スペーラーが伸びをしながら現れた。
「準備はいいですか。霧丘は方向感覚を失いやすい場所です」
「迷子には慣れてます!」
「……誇ることではありません」
そのやり取りに、シーカーが苦笑した。
顔をそろえた三人は静かに詰所を出発した。
どこまでも続くかと思われた草原をこえ
気づけば丘を歩いていた。丘は山々に続いていた。
気づけば谷を越える風が、三人の背を押す。
地平線は霞んで溶け、空と大地の境がわからない。
アイルは思わずつぶやいた。
「世界って、こんなに大きかったんだ……」
村の外の世界を目の当たりにしたアイルの足どりは誰よりも軽かった。
山々を進むほどに白いもやが濃くなっていき、朝の光が霧に溶けていった。
「これが霧丘……幻想的だね」
アイルは空を見上げ、霞の向こうの影を追った。
スペーラーは立ち止まり、霧の奥を見据えた。
「このあたりがもう“外郭”です。報告では、このあたりに光が走ったとか」
「神族が出張ってきたんでしょ?なんでなの?」
アイルが軽く言うと、スペーラーが少しだけこちらを振り向いた。
「“神族”は、世界の均衡になにかしら異変が出たときに現れる――と、そう言われていますよね。
もしかしたら……ふー…あなたが無理やり持ち込んだ“何か”に、原因があるのかもしれませんね」
「えっ!? な、なんのことでしょうか。あは…あははは…いつ見たんですか…あは…えっ?」
アイルは慌てて笑った。
シーカーがすかさず肩をすくめ、
「まあ…そんなたいしたもんじゃないですよ。規約違反にはならないと思いますよ。たぶん…」
「そ、そうそう!たいしたもんじゃあありません。あは…あはははは」
「……そうですか。まあ、私には関係のないことですし、なにを持ち込もうが私はかまわないんですけど」
スペーラーはそれ以上追及せず、わずかに口元をゆるめた。
「ですが、“神族”には興味があります。滅多に出会えませんからね」
三人は霧の中を進んだ。
足元の草は湿っており、踏むたびに水音がする。
霧が少し流れた隙間から、崩れた石碑のようなものが顔を出した。
表面には読めない文字が刻まれている。

アイルは足を止めて覗き込み、ポーチを少し開いた。
中のデバ石が、うっすらと光っていた。
「……え?」
アイルが目を凝らすと、
光はすぐに消え、デバ石は沈黙した。
「どうした?」
シーカーが振り返る。
「ううん、なんでもない」
アイルは笑ってごまかしたが、胸の奥がざわついた。
そのときー
霧の奥で、かすかに空気が揺れた。
光の粒が、風に乗って舞い上がる。
スペーラーが静かに剣の柄に手をかけた。
「……何か、いますね」
アイルは息を呑み、霧の向こうを見つめた。
白い靄の中、形を持たない“何か”が、ゆっくりとこちらを向いた。
それは異常ともいえるほどに……かわいかった。



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