アイアイは言葉を失い、その場に立ち尽くした。
風が吹いた。だが、どこから吹いているのか、分からなかった。
猫族の使者は何も言わなかった。ただ静かに、そこに立っていた。
「……これ……なんなの?」
アイアイの問いに、猫族の使者がちらりと振り返り、ぽつりとつぶやいた。
「これは……まあ、いつの間にかこうなっていましたね」
それ以上、説明はなかった。だが、その言葉の軽さが、逆にアイアイの胸に冷たいものを落とした。けれど、それは確かに、この国の奥深くに隠された“何か”の入口のように思えた。
そのときだった。
アイアイの胸ポケットで、デバ石がふるふると震えた。それは熱でも冷たさでもなく、まるで内側から「何かを言おうとしている」ような感触だった。
「……聞こえる?」
思わず問いかけたアイアイの声に、グリグリがそっと顔を向けた。
だが石は、また沈黙した。
城の欠けた境界のそばに、グリグリはひとりで近づいていった。 縁のぎりぎりに立ち、遠くを見つめている。

「ねえ、グリグリ……どうしたの?」
風の音にまぎれて、彼の声がかすかに返ってきた。
「……あのときも、こうだった気がする。何か、大きなものが……、すごく静かに、消えていったんだ……」
その言葉の意味はわからなかったが、アイアイには、グリグリの中にある”何か”が、今まさに疼いているのだとわかった。
だが「あのとき」という言葉は今まで何度も聞いた言葉だ。アイアイには「あのとき」の記憶はないが、グリグリにはあるのだろうか。いずれにせよ「この空間の違和感」が、今まで何度も言い聞かされてきた「あのとき」に起因するのなら、アイアイにも納得ができそうだった。
猫族の使者は、いつの間にか岩壁の下にある階段のようなものを指し示していた。
「続きは、あちらでご覧ください」

そう言ったときの声は、それまでよりも少しだけ低かった。アイアイは足を進めた。グリグリも、それに続いた。
暗がりの下へと向かう階段は、長く、深く続いていた。 その先に、王も、コリクも口にしなかった“何か”が、静かに眠っているような気がしてならなかった。
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階段の先は、しっとりとした冷気に包まれていた。 かすかに湿った空気。地の底から立ち上るような、土とも金属ともつかぬにおい。
石の壁には苔のようなものが浮かび、ところどころ古びた灯りが等間隔に取り付けられていたが、どれも消えていた。
猫族の使者が片手でふれると、その灯りが一つ、また一つと、ゆっくりとともっていった。
やがて、ひらけた空間に出た。壁一面に古い端末が並び、その多くは壊れているか、ひどくひび割れていた。床には、砕けた記録媒体や石板のかけらが散乱している。

「ここは……なに?」
アイアイがたずねると、猫族の使者は端末のひとつに指を伸ばし、軽く叩いた。
「記録室、のようなものでした。以前は。今はもう……誰も管理していませんけれど」
端末の一つが、かすかに光を放った。ノイズ混じりの音声が、断続的に再生された。
「……トロトロット……公国軍……住民データ……一部消失……避難誘導……記録未完……」
アイアイは凍りついた。
トロトロット公国──あの夜、村を襲った兵たちが名乗っていた名前。
「これ……これって……!」
そのとき、もう一台の端末が、ひとりでに作動を始めた。
画面がちらつき、文字が走る。
『観測記録:アルンデスカイ領域との交信試行ログ』
その中に、アイアイは、ある名前を見つけた。
『アイル』
一瞬、空気が変わった気がした。 グリグリが、なにかに反応するように顔を上げた。
その目は、どこか怯えたようであり、懐かしさを宿しているようでもあった。
「……見たことがある。……でも、いつだっけ……」
グリグリが口にしたその声は、自分に言い聞かせるような、壊れそうな声だった。
アイアイはそっとグリグリの腕に手を添えた。
「大丈夫。無理に思い出さなくてもいいよ。でも……アイルって、あの、アイル……なのかな。。」
アイアイの声が、ほんのわずか震えていた。
その後、アイアイははっきりと告げた。
「アイルは……母の名です」
猫族の使者は、一拍置いて、まばたきもせずに言った。
「……そうですか。それは、まあ……同名ということも、ありますからね」
その声は、あまりにも静かで、表情も変わらなかった。 まるで、予想外の答えを受け流すためにだけ用意された“定型”のようだった。
だが、その無機質な一言が、かえってアイアイの中に重く沈んだ。
その言葉が空気に落ちたとたん、グリグリの顔色が変わった。
まるで音のない鐘が、胸の中で鳴り響いたような表情だった。
猫族の使者は何も言わなかった。
ただ、部屋の奥にある、もうひとつの重たい扉を、じっと見つめていた。


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