焚き火の煙が、湿った空気に滲むようにして、空へと昇っていく。風は幾分落ち着いたものの、谷の奥からはまだ不規則な唸りが時おり響いていた。
ダガールは荷車をそっと地面に下ろし、その脇に腰を下ろしていた。彼の背には長年の旅で磨耗した傷跡がいくつも刻まれており、それらが語らずとも彼の過去を物語っていた。
「……このあたりの地形は、ころころと変わってしまうのだ」
ぽつりとダガールがつぶやく。
「変わるって?地形がですか?そんなこと、、、あるんですか?」
アイアイが問いかける。
ダガールはしばらく考えるように沈黙したあと、顎を開いた。

「信じられないかもしれないが、、、、風の流れが変わるたびに、道のかたちも変わる。見覚えのある岩が、いつの間にか無くなってたり、反対に、さっきまでなかったはずの道が突然に現れたりするのだ。もう何年、、十年か、、毎日毎日そんな感じだ。」
猫の使者は火に薪をくべながら、視線だけをダガールに向けた。
「それだけ長く彷徨っていたとすれば……」
「“見つけられないようになっている”ってことだろう?」
とダガールが苦笑した。
「たとえば、誰かが意図して隠しているような……そんな感覚が時々するんだよ」
グリグリがぽつりとつぶやく。
「風に意志がある、みたいな……?」
ダガールはその言葉に反応して、目を細めた。
「そう言えば聞こえがいいが、実際には“風”というより……風の“向こう側”に何かがいて…そいつに翻弄されている…そんな感じだな。そいつの意思は感じるのだ」
ダガールは振りかぶった巨大な拳をそのまま岩にたたきつけた。岩はいとも簡単に、コナゴナに砕け、飛散した欠片がのひとつがアイアイとグリグリの間をかすめた。
「悪い」それだけつぶやき、ダガールは黙りこみ、少し離れたところに視線を投げた。
焚き火のぱちぱちという音だけが、静けさを埋めていた。
「……それでも、それでも村を探し続けてるんですね」
アイアイがそっと言った。
「ああ。ある日突然、すべてが消えた。それなら、ある日突然、また見えるかもしれんだろう?風が気まぐれなら、その気まぐれに付き合うまでだ。それに俺を何年も翻弄した奴が本当にいるとしたら、、、一発ぶんなぐってやらんと気がすまんからな」
そういってダガールは大きく口を開けて笑った。
猫の使者がごく控えめな声でつぶやく。
「きっと、いつか見つかりますよ。」
グリグリが、ぽりぽりと干し果物をかじりながら言った。
「でも、ずっと見つからなかったら……どうするの?」
ダガールは少し笑った。
「残酷なことを聞くのぉ、俺が生きてる限り、谷をさまよい探し続ける。それだけのことよ」
その言葉に、アイアイもグリグリも何も言えなかった。
しばらくして、ダガールはそっと布に包まれた荷物を撫でた。
「昔、そこにいた者たちのものだ。俺の妻と娘のものが入っている。これだけは……どうしても村に持っていきたくてな」
アイアイはそっと頷いた。グリグリはじっと荷車を見つめていた。
「ダガー・・ルさん…さっきは、見つかんないかもみたいなこと言って‥ごめんなさい」
口を開いたグリグリに、ダガールはグイと向き直り、小さな我が子に対してであるかのように話しかけた。
「グリグリ。俺は何も気にしてないぞ。だがな、人のことを思って、自分を変えていけるものは強い。ただの臆病者だと思ったが、お前もなかなかの強者だな」
そういってダガールはまた笑った。
そして四人は、再び静かに焚き火を囲んだ。
谷の風がまた、少しだけ強くなったような気がした。
---------------------------------------
休憩を終えた四人は、再び谷の奥へと歩を進めていた。
風の勢いはやや落ち着いたものの、岩の裂け目から吹き抜ける空気は冷たく、時折、奇妙な音を含んでいた。それは風のうなりというより、誰かの囁き声のようでもあり、全員の足を自然と慎重にさせた。
グリグリはダガールの背中に目をやりながら、小声でつぶやいた。
「さっきよりは……怖くない気がする。でも、なんでかな……歩いてるのに、同じ場所をぐるぐるしてる気がしてきた……」
猫の使者が振り返る。
「それは、錯覚ではないかもしれません。この地の風は、方向感覚にも干渉してくる可能性があります」
「……感覚にまで?」アイアイが思わず聞き返した。
「ほら見てください、あの岩を。この形の岩の前を先ほども確実に我々は通っています。私たちは本当に同じ場所に戻ってきたものと思われます。」
確かにウサギが笑っているような形をした変な岩で、間違えようがない気がした。
そのとき、道の先に不自然な影が見えた。谷の斜面に沿って生えていた木々が、突然何本か、根ごと引き抜かれたように倒れていたのだ。
「……さっき、こんな倒木あったか?」
ダガールが足を止め、眉をひそめる。
「いえ、これについては……記憶にない」
と猫の使者は答えた。
アイアイは、倒木の向こうに何か光るものを見つけた。まるで──水たまりのように、きらりと反射するもの。
「……あれ、なんだろう」
四人が近づくと、それは岩の地面にぽっかりと開いた、円形の“穴”だった。浅く広がるその穴には、透明な水が満ちており、空や岩肌を鏡のように映し出していた。

だがその“映し方”に、四人はすぐに異変を感じた。
グリグリが、穴の水面をのぞき込み、小さく声を漏らした。
「……これ、ぼくたちじゃ…ない!」
水面に映っていたのは、確かに人影だった。だが、その姿は今の四人とは異なっていた。アイアイは背が高く、何か兵士のような鎧を身につけていた。グリグリはぐっと痩せ、どこか険しい顔つきになっていた。猫の使者は、その目に光がなく、ダガールに至っては──いなかった。
「……これ、“未来”か?」
誰ともなく、そんな声が漏れた。
猫の使者が静かに首を振った。
「……断言はできません。ですが、これは一つの“可能性”を映しているのかもしれません」
「それとも、風が見せてるだけの幻……?」
アイアイがつぶやいたとき、足元の地面がかすかに震えた。誰かの、いや──何かの気配が、穴の向こう側からじわじわとこちらへ迫ってくる。
「離れて!」
猫の使者が叫んだその瞬間、穴の水面がひとりでに泡立ち、中心から黒い“腕”のようなものが、にゅるりと伸びてきた。
「うわあああ!!」
グリグリが反射的にしりもちをつき、アイアイが引き戻す。
黒い腕は、水面から伸びるというより、鏡の“内側”から押し出されているように見えた。何か、そこから這い出そうとしている。
「退けッ!!」
ダガールが咄嗟に大剣を取り出し、その重量をかけて黒い腕を叩き潰すように振り下ろした。

ずしん──という重い音とともに、黒い影は一瞬で霧散した。
水面は波紋を描きながら、再びただの“静かな水たまり”に戻っていた。
ダガールの一撃で割れた水面の水は四人とも頭から襲っていた。三人はびしょぬれになりながら呆然と立ち尽くした。だが、ダガールだけはその鏡面に睨みを利かせたまま、動かなかった。
「今の……なんだったんだ……?」
アイアイの声に、誰も答えられなかった。
風が再び唸った。谷のどこかで、また“別の道”が開かれたような音がした。
「この先……もう、戻れないかもしれませんね」
猫の使者のその言葉に、全員が無言で頷いた。


コメント