「アイルの……?」
アイアイの声が、反射的に漏れた。
その名前は、母の名前であり、映像の少女の名前でもある。同一人物であることは本来あり得ないが、どちらにしても今のアイアイにとって、その名が重要であることに変わりはなかった。
そして、あらためてその名前が“第三者の口から”出たことで、胸の奥にざわりとした波が走った。
「そうそう。アイルちゃん、今ちょっと手が離せないみたいだけど、君たちがそろそろここに来るってのは分かってたみたいでさ。『ちょっと会って話してあげて』って、ぼくが派遣されたんだよ~」
ツヴェイは、どこか誇らしげに胸を張る。だがそのしぐさと、アイルという名前が、どうにも結びつかず、アイアイは少し困惑した。
アイアイは言葉をふり絞ってツヴェイに尋ねた。
「……アイルは、どこにいるの?無事な…の?」
その問いに、ツヴェイの表情がほんの一瞬だけ揺れた。
軽く目をそらし、しばらく空を見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「ぼくの口から、言えることは少ないんだ。アイルちゃん自身が“言いたいことだけ、直接伝えたい”ってタイプでさ。……あと、タイミングとかもあるらしくてね」
アイアイはそれでも食い下がり質問を続けた。
「でも・・ちょっとでもいいから知りたいんだ!アイルは今、公国に捕まっているの??」
ドラゴンの表情が一変し、あたりの空気が一瞬重くなったように感じる。
「しつこいな~。言えることはないんだって。そんなにしつこいと食べちゃうよ~」
ツヴェイはいたずらっぽく笑ったが、グリグリは震えて、落胆するアイアイの背中に隠れた。
その光景を見ながら猫の使者がぼそぼそとつぶやいた。
「情報の出力順を制御している……やはり、明確な・・・・・・・・がなされているのか・・・つまり」
「えっ?なんかそれ難しい話だね? 僕よくわかんないや。でも、まあ……アイルちゃんが“来るな”って言ったら、ぼく、来てないからさ。そこだけは信用していいと思うよ?」
アイアイは小さく息を吐いた。
今このドラゴンが信用できるかはともかく
──アイルの意志が、ここに繋がっているという事実だけは、重みがあった。
「あーーーー!!思いだした!!思い出したよ。そうだそうだ。」
ツヴェイが突然出した大声に、グリグリは空まで飛んでいきそうに跳ね上がった
「そうだそうだそうだ!そうだった。うん。うんうん。みんな、ひとつ、頼みがあるんだけど……もうちょっとこの辺、付き合ってくれない?うんうん。思い出したよ。ぼくってえらい~。」
そしてツヴェイの声色が、少しだけ真面目なものに変わる。
「君たち、鍵を持ってるでしょ? それを使う“場所”があるんだ。まだ先だけど、その前に……“中継地”みたいなのが設けられててね。そこに案内するのが、ぼくの今回の仕事らしくてさ」
“らしくて”、という口ぶりに、猫の使者が眉をひそめる。
「はーい。じゃあさっそくいってみよ~」
ツヴェイは、思い出せたことがよっぽどうれしかったのか、ひどくはしゃいでいた。
グリグリがぽつりと言う。
「で、その“中継地”ってのは……こわいとこ?」
ツヴェイは、急旋回でグリグリに向き合い、食べてしまいそうな距離まで顔を近づけてニンマリと笑った。
そして少し首をかしげ、口をとがらせて言った。
「それは……行ってみてからのお楽しみ、ってことで!」
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ツヴェイは高らかに笑うと、その大きな体をひねるようにして、空へ舞い上がった。
「じゃ、いっくよー!遅れたら置いてくからね〜!」
急旋回しながら上昇するツヴェイ。その翼が切る風は想像以上に荒々しく、三人はとっさに身を伏せた。地上すれすれで渦巻く風が、草を逆立て、小石を跳ね飛ばす。

「ちょ、ちょっと!ほんとに行くの?!」
グリグリが叫ぶが、猫の使者は冷静に頷く。
「中継地までは、あの竜が先導します。風が乱れる前に追いましょう」
その声に促されて、三人と一体は駆け出した。
走りながらアイアイ猫の使者に尋ねる。
「どこに向かってるかわかる?」
猫の使者はまっすぐ前を見たまま答えた。
「おそらく、いや・・これは”暴風雨の谷”を目指していると思われます。地図で”暴風雨の谷”の名前を見たとき違和感を感じました。旧塔から、目的地の学舎までは行くのに、暴風雨の谷を通ることはまずありません。遠回り過ぎるんです、、はじめから中継地として設定されていたのでしょう・・・」
目の前には、山々の裂け目のように広がる峡谷。その奥に、黒く渦巻く雲の帯が見える。そこが“暴風雨の谷”──ツヴェイが示そうとしている中継地だった。
「なんか、空の向こう側が、ずっと怒ってるみたい……」
グリグリの声はかすれていた。
雲の帯が近づくにつれて、空気が徐々に重たくなっていく。まるで見えない膜に包まれていくような圧力が、彼らの足を鈍らせた。
しかしそのとき、アイアイのデバ石がわずかに震えた。
アイアイは立ち止まり、胸に手をあてる。
「……ガルガンチュア?」
だが返事はない。ただ、温かな感覚とともに、進行方向の風が一瞬だけ和らいだ。
ツヴェイが、雲の切れ間で空中停止しているのが見えた。
あの巨体が小さく見えるほど、距離ができていた。
「どうやら、待ってくれてるらしいな」
猫の使者が呟く。
「彼なりの“真面目さ”というやつかもしれません」
グリグリはゼーゼーと肩で息をしながら言った。
「……あのドラゴン、最初の印象と違いすぎる……けど……悪いやつじゃない、かも……」
アイアイは、ただ前を見据えた。
「行こう。母さんの“先”を、見に行かなくちゃ」
そして、彼らは再び走り出した。
グリグリが走りながら何かをつぶやいた。
「先なのか、後なのか、、、前なのか、、、」
グリグリのつぶやきは、吐息とも走る三人の後方に流されていった。
黒雲に包まれた“暴風雨の谷”へ。
その先に、アイルの何かが──きっと、待っている。そのことがアイアイをただ前に向かせた。


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