川を渡り、午後になったころ、小さな林を抜けた先で、一本の煙が空に向かって細く立ち上っているのが見えた。
近づいていくと、そこには旅装束をまとった年老いた老婆が腰を下ろし、焚き火の上に鍋をかけていた。白く長い毛と、つぎはぎの赤いショール。腰を丸めて薪をくべるその姿は、どこか昔話に出てくる魔女のようでもあったが、その目は思いがけず澄んでいて、まっすぐだった。

「旅の者かい? あんた、ザラーリンに行く途中かね」
老婆はそう言うと、煮立った鍋の脇に敷かれた布をぽんぽんと叩いた。
「よかったら、お茶でも飲んでいくといいよ。ひとりで歩いてるんだろう?」
差し出された湯呑みには、薄く琥珀色の液体。香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。
アイアイは警戒しつつも、どこか懐かしい香りに誘われるように、そっと腰を下ろした。
老婆は「ヤギ族」の人らしい。アイアイは「ヤギ族」と「羊族」を見分けるのが昔から苦手だった。「ヤギ族」は「羊族」に、「羊族」は「ヤギ族」に間違えられるとすごく不機嫌になる。アイアイは細心の注意で会話しようと小さく心に決めた。
だが、アイアイが座るや否や、老婆は当然かのように唐突に話を始めた。少し驚いたアイアイだったが、村の入口の石に座っていた「猫族」のおじさんもいつも唐突に同じようなことしか話さないのを思い出して、なんだか懐かしい気持ちになった。
「昔はね、この大陸の上空に、“アルンデスカイ”という空の国があったんだよ」

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老婆は火を見つめながら、つづけて、ゆっくりと語り始めた。
「その国はこの大陸が生まれる何万年も前から存在しているといわれている。永遠のような時間のなかで、人は夢を育て、物語を生んだ。そんな場所だったんだ」
「アルンデスカイ……」
アイアイはその名に聞き覚えがあった。母が語ってくれた物語の中に、確かにその国の名前が出てきたことがある。
「そこから、この世界の人々が生まれたとも言われているんだ。でも今は、もう……」
老婆は火にくべた薪を軽くつつきながら、声を落とした。
「空は閉ざされ、アルンデスカイとは次元が断たれてしまった。あの国では、今は、時が止まっているともいわれているね。そこから新たな命はもう降りてこない。代わりに、この世界で人々は“知恵の石”に頼るようになった」
老婆の視線が、アイアイのポケットをちらりと見た。
アイアイはぎゅっとポケットを押さえた。
「物語ってのはね、忘れられると、腐っていくんだよ。でも思い出そうとする者がいれば、また動き出す。そういうもんさ」
老婆の声は、まるで風の音のように、アイアイの胸の奥へとしみ込んでいった。
そのとき何かがこすれる様な音がして、その後、老婆が言った。
「旅の者かい? あんた、ザラーリンに行く途中かね」
アイアイは驚いて顔を上げたが、老婆はもうそれ以上何も言わなかった。ただ火を見つめながら、鍋の蓋を少し持ち上げ、香草の匂いが立ち上るのを確認していた。アイアイは周りを見回したが誰もいる様子はなかった。


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