水平線の向こうへとつづく一本の街道を、ひとりの少年が歩いていた。
朝からの霧はまだ晴れておらず、見渡す先には、かすんだ丘の稜線がぼんやりと浮かんでいた。上空には1羽のカラスが旋回しており、時折、鳴き声を発している。
崖の村ディグレンチェを出てすぐの道。何度も通ったことのある道。
両脇には、風にざわめく背の高い草が広がり、今は誰の声も、誰の足音も聞こえない。カラスの存在だけが色濃く存在感を示していた。アイアイはカラスの鳴き声を聞くたびに不安が強くなっていくのを感じた。
「……行こう。ザラーリンまで、まずは行こう」
アイアイはひとり言のようにつぶやき、ぎゅっとリュックの紐を握りなおした。
荷物の持ち手に結ばれた母のスカーフがそっと揺れている。アイアイは、歩きながら周りの景色がかわっていくことで村から離れていく自分に気づかされた。目線を道の先にだけ固定して歩いてみようと思った。
そのとき——
「ケエェェ……」

不意に、空から鋭い声が落ちてきた。
見上げると、真上に一羽のカラス。
黒くて大きな翼が、ゆっくりと空を滑っている。
一度旋回すると、アイアイのすぐ前にある道ばたの石の上へ、軽やかに降り立った。
カラスは、こちらをまっすぐに見ていた。
不思議なことに、まるで「アイアイに用がある」ような風だった。
「……なに? どうしたの?」
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カラスはくちばしをわずかに開けた。なにか石のようなモノがクチバシに引っかかっているのが見えた。
「カー・・Zugriffsfehler._カーカーSEKTOR_22A_カーUnbekannter Schlüssel…カァアァア」
アイアイは、一歩だけ後ずさった。
石が嘴に引っかかっているからなのか、カラスの鳴き声はディグレンチェ村の村長のダミ声みたいに聞こえた。 どこか機械の故障音のような響き。前にも何度かみたような気がする光景だ。
「カーカーWarnung. Zeitversatz erkannt. カーStrukturinstabilität hoch.」
ふたたび、村長のダミ声で鳴くカラスがかわいそうに思えて、アイアイは嘴の石を取ってやることにした。石は1cmほどの直径で少しだけ光沢を持っていた。
アイアイはなんとなしにその石をコートのポケットにしまった。
「カー」
カラスは静かにそれだけ言うと、ぱっと翼を広げて、また空へ舞い上がっていった。
その姿は、薄い霧の向こうにすぐに溶け、見えなくなった。
カラスに上空を飛ばれ、不吉を感じ、不安に押しつぶされそうになったアイアイだったが、ふっと心が軽くなった。
「カラスってだけで、勝手にイメージつけて、勝手に怖がってただけなんだ。」
「あのカラスは助けてもらいたいだけだったんだ。助けられてよかった。」
カラスは見えなくなったが、アイアイはその飛んでいた先の空をしばらく見つめ続けた。
吹く風がアイアイの頬をなで、気を取り直したアイアイはリュックを背負い直し、また歩き出した。
その背中のうしろで、草むらの中、小さな葉が音を立てて揺れた。
臆病そうな、ちいさな足音が、そのあとを、そっとついていく。


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